東京地方裁判所 昭和60年(刑わ)1007号 判決 1985年1月22日
主文
被告人を禁錮一年一〇月に処する。
この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、昭和五八年一〇月二日午後一〇時一〇分ころ、業務として普通貨物自動車(軽四)を運転し、東京都葛飾区宝町二丁目三二番二四号先道路を四つ木橋方面からお花茶屋方面に向かい進行中、道路標識により指定された最高速度(三〇キロメートル毎時)を守るはもちろん、ハンドル・ブレーキなどを的確に操作して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然、時速約六五キロメートルの高速度で進行し、折りから反対側道路を対向して進行してきた車両を認め狼狽し、左に急転把した過失により、道路左側のガードレールに衝突しそうになつたので、あわてて右に急転把した結果自車の走行の自由を失わせ、蛇行して進行したあと左斜め前方に暴走させ、道路左側に設置してある信号柱に自車左側後部荷台を激突させて、その衝撃により、後部荷台に同乗していた廣木誠司(当時一八年)及び大谷慶永(当時一八年)を道路に転落させ、右廣木に脳挫傷の傷害を負わせ、よつて、同人を同日午後一〇時五〇分ころ、同区亀有三丁目三六番三号亀有病院において死亡させるとともに右大谷に頭蓋骨骨折・脳損傷の傷害を負わせ、よつて、同人を翌三日午前一時五五分ころ、同都千代田区神田駿河台一丁目八番一三号日本大学駿河台病院において死亡させ、更に、助手席に同乗していた佐藤浩(当時一八年)に対し、全治約二週間を要する後頭部頭皮挫創を伴う脳震盪等の傷害を負わせたものである。
(証拠の標目) (省略)
(補足説明)
一 被告人は、死亡した被害者廣木誠司及び大谷慶永が被告人運転車両の後部荷台に同乗していたかどうか判らない旨述べ、かつ、弁護人は、右廣木らが右荷台に同乗していなかつた可能性が強い旨主張する。確かに本件事故前に右廣木らと行動を共にしていた被告人や参考人らの供述等によつても、事故前の右被害者らの行動は必ずしも明らかではないが、前掲の死体検案書二通、右被害者らの死体に関する写真撮影報告書及び東京都監察医木村寿子、同上野正彦の当公判廷における各供述等によつて認められる右被害者らの身体の損傷の部位や状況、更には本件事故態様、現場の痕跡等によれば右廣木及び大谷が本件事故現場付近を歩行中ないし佇立中に被告人運転車両に衝突されたとの可能性は否定され、廣木らは被告人運転車両の荷台に同乗していて本件事故に遭遇したと認めるのが相当であつて、外に右被害者らが死亡するに至つた原因は証拠上認定し得ない。
そして、被告人の判示過失によつて右廣木、大谷の両名が死亡したことは前掲の各証拠によつて明らかといわなければならない。
二 公訴事実によると、被害者佐藤浩の傷害の程度は全治約二か月間を要するものとされるが、同人の当公判廷における供述、医師杉本正博作成の診断書及び「破傷風トキツイド注射予定」と題する書面謄本等によれば、右佐藤の傷害が全治約二カ月間を要したとは認められず、判示のとおり全治約二週間を要したにすぎないと認定するのが相当である。
(法令の適用)
罰条
刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号
科刑上一罪の処理
刑法五四条一項前段、一〇条(犯情の最も重い大谷慶永に対する業務上過失致死罪の刑で処断)
刑の選択
禁錮刑
刑の執行猶予
刑法二五条一項
訴訟費用の処理
刑事訴訟法一八一条一項本文
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、死亡した被害者廣木及び大谷が本件車両の荷台に乗車していなかつた可能性があるし、仮に同人らが乗車していたとしてもその事実を被告人は認識しておらず、また認識もし得なかつた上、本件公訴事実の訴因は、被告人が右事実を知つていたことを前提としてのそれであるから、被告人が右事実を認識していたと認定し得るのであれば格別、そうでなければ右廣木らに対する業務上過失致死罪に関する訴因についてはこれを認めるに足る証拠は無いから無罪である旨主張する。
確かに当裁判所としても被告人が右被害者らの同乗の事実を明確に認識していたと認定することには躊躇を感ずるし、逆に被告人が右事実を認識していなかつた可能性を払拭することはできないものと考えるものである。そして、もし事故の態様や運転者の過失が本件と異なるもの(たとえば、わずかな制動措置や転把によつて荷台に乗つていた者が振り落とされたような場合)であれば弁護人の右主張もあながち排斥し得ない場合もあると思われるが、こと本件のような過失及び事故態様を前提とすれば、被告人の過失と結果との間に因果関係が認められる限り、被告人が右の事実を認識していたかどうか、あるいはそれを認識し得たか否かにかかわりなく本件公訴事実記載の程度の注意義務及び過失によつて十分訴因としての明確性をそなえているものと認められ、かつ、本件の審理過程に鑑みれば判示のとおり認定しても弁護人の主張するように審判の対象となつていない事実につき判断したことにはならないものと考える。すなわち、業務上過失致死傷罪における注意義務及び過失は、ある一定の状況を前提とし、被告人の当該行動に結果発生の危険性があるかどうかによつてその存否が検討されるべきものであるところ、本件被告人運転車両の助手席には前記佐藤浩が同乗していた上、本件における被告人の過失及び事故態様は判示のとおりであつて、それ自体単に被告人運転車両の荷台に乗つている者が死傷するかもしれない危険性だけではなく、助手席の同乗者更には歩行者、他の車両の運転者及びその同乗者等に対する死傷の結果をも生ぜしむるに十分な危険性を内包するものであつて、現に本件においては右佐藤も負傷しているのである。仮に被告人が、わずかな転把や制動措置など荷台に乗車している者のみに対する危険性を有する行動をとつた結果同人らの死傷の結果が生じたのであれば、被告人の被害者らの同乗に関する事実認識の有無やその可能性の有無を明らかにした上でなければその注意義務や過失の存否を確定し得ない場合もあり得ると思われるが、本件の事故態様は判示の通りであるから、右の認識やその可能性の有無が、情状に影響を及ぼすことは別論として、注意義務や過失の有無の認定についてまで影響を与えることはないと考える。そして、公訴事実は訴因を明示してこれを記載するとの法の要請は、審判の対象を限定し、被告人に防禦の範囲を示すこと、つまり、不意うちを許さないとの目的から出たものであるところ、本件の公訴事実においては被告人の認識については特に触れていない上、本件の審理経過、公訴事実掲記の注意義務、過失、本件事故の態様及び結果等に照らせば被告人の防禦は十分尽くされており、判示の事実を認定することは何ら違法ではないと判断した。
(量刑の理由)
本件の過失態様及び事故態様は判示のとおりであつて過失及び結果は極めて重大で、死亡した被害者はもとよりその遺族の無念さや悲しみには察するに余りあるものがある上、いまだ遺族との示談が成立しておらずその被害感情が十分癒やされていないこと等を考慮すると被告人の刑責は重大であり、実刑をもつてのぞむべき事案であるとの検察官の主張もあながち首肯し得ないでもない。しかしながら、二名の被害者の死亡については、被告人の過失だけでなく、右被害者らが被告人運転車両の荷台に乗車したこと(それも被告人には黙つて乗つた可能性を否定し得ない)が大きな原因と考えられるから、この結果については被害者らの落度も大きく被告人のみを責めるのは酷であると思われること、被害者佐藤の傷害の程度は比較的軽微で同人も被告人を宥恕していること、被告人は若年で前科前歴がないこと等被告人に有利な諸事情を考慮すれば、被告人を実刑に処するのはいささか酷に過ぎるものと判断した。
よつて、主文のとおり判決する。